ざっくり駆け抜ける「大久保利通」
「大久保利通」
1830年9月26日生。天秤座。
吉田茂氏のおじいちゃんで、麻生太郎氏のおじいちゃんのおじいちゃんにあたる人。
もとは薩摩の下級藩士。
薩摩藩立の学校で、西郷隆盛、税所篤、吉井友実、海江田信義らと一緒に学び、親交を深めた。
仲間のなかでも抜きんでて学問がよくできた。
胃が弱く、武術はあまりふるわなかったようだ。
ちなみに、この頃の名は利通ではなく、正助(しょうすけ)だった。
16歳で藩の「記録所書役助」となるが、御家騒動に巻き込まれて、父ともども謹慎をくらい、借金だらけの貧しい生活に転げ落ちた。
が、藩の主が代わると、また記録書で働けるようになった。
その後、藩主に目をかけられて藩政に参加できるようになった。
そこでガツガツ出世し、「利通」に改名した。
そしてそのまま、幕末とよばれる時代のうねりになだれこんでゆくことになる。
薩摩藩というと血の気の多いイメージだが、利通は無用な戦いは避けたいと考える人だったようである。
彼ら薩摩藩は、最終的には武力によるクーデターを計画していたが、利通が得意としていたのは根回しや、駆け引き、盟約の取り付けなどで、それによって、幕府を倒幕寸前、というところまで追い詰めた。
しかし、結局、徳川慶喜に先に大政奉還されてしまってどっちらけになり、おいしいところは慶喜にもっていかれ、自分たちははすに追いやられてしまったので、
「力でねじ伏せる!」
と、いう血の気多い路線にスイッチする。ザ・薩摩的反発力。
力でオラオラ、と朝廷に乗り込み、
「今から新政府が発足する!」と宣言。
「ええっ!?聞いてないよ!?出てけコラ!!」
と当然反撃する慶喜派にいったんは追い出されかけるものの、鳥羽伏見で巻き返し、旧幕府軍を蹴散らして、江戸城を明け渡させた。
THE・薩摩的反発力。
そしてめでたく新政府が発足する。
利通はその後、できたてほやほやの新政府の要職について体制をつくったり、海外を外遊したり、帰ってきたらかつての同志が朝鮮攻めるとか息巻いてて「やめろおまえら」と抑えたりした。
特に、息巻く同士をおさえるのは大変だったらしい。
そもそも、利通たちが外遊によって国をあけている間は「国を動かすような重大は決断はしない」と約束をしていたが、その間に国に残って留守をあずかる西郷組は、朝鮮がアメリカ船を蹴散らしたり、日本の「開国したからよろしくね」という使いをつっぱねたりしたことを受けて「マジないわ」とブチ切れる。
この動きは、西郷隆盛を朝鮮に派遣してどうのこうの、というところまで話が進んでいたが、帰ってきた利通たちに「何してんだコラ!」と抑えられて腰折れになった。
利通いわく、
1.今行っても無駄、悪くすると西郷は殺される。
2.殺されなかったとしても、拒否されたら戦争になってしまう。
3.今朝鮮と戦争なんかしたら、後ろに控えるロシアや清などの大国がぞろぞろついてきちゃう
4・もしそんなことになったらヒヨコ同然の新政府に勝ち目などない。
5.ていうか、勝手なことしないって約束してったのにどこ吹く風かよ馬鹿野郎。
6.そこじゃなくて、琉球とか樺太とか千鳥小笠原とか、もっとヤバいところがいっぱいあるでしょうが。
7.第一、先立つものがないでしょうが。ゼニがないよ、ゼニが!!
などなどと猛説教。
だが、西郷が「命を懸ける」とまで言い放って食い下がり、とうとう出兵を決定させてしまった。
利通、岩倉などの反対ははこぞって政府を辞め、あげく「天皇に決めてもらおう」という話になった。
ところが、その話し合いの苛烈なストレスで、まとめ役だった三条太政大臣が倒れて、意識不明になってしまう。
後を継いで岩倉がまとめ役となり、明治天皇に、
「兵を出すことに決まったけど、個人的にはやめたほうがいいと思う」
と、延期を提案。
「じゃあそれでいこう」
となる明治天皇。
かくして西郷隆盛は出かけられなくなった。
この時、利通が天皇に「西郷が来ても会っちゃダメ」と根回しをかけていた。
西郷氏はこれによって辞表を即出しして、ふるさとへ帰ってしまう。
彼を慕う多くの官僚や軍人が、彼について政府を辞めていった。
そして明治6年。
利通は内務省を発足させる。
自らそのトップに立って実験を握るや、
「今までのは全部長いプロローグにすぎん」とばかりにバリバリ仕事を始める。
乱がおきると自ら兵を率いて鎮め、海外でやらかしちゃった、と聞けば現地にとんで交渉し、海運政策つくろうよ、と働きかけ、とにかく権力を一手に握っていった。
今日の官僚機構の基礎は、この時にほぼ出来上がっていた。
利通が「霞が関の父」と呼ばれる所以である。
利通は「プロイセンのような国」を目指し、いずれは政府と天皇をひとつにまとめようとしていたと言われている。
しかし、
1.西郷をおっぱらった張本人だと思われていた。
2.新政府がまだ頼りなくて、周囲を不安にさせていた。
などの理由から、血気盛んな若者がさや走って利通暗殺を決行。
刀で斬り殺されてしまう。47歳だった。
実は子煩悩で、家族を無上に大事にしていたが、そういう人柄を知らない他人にはかなり怖がられていたらしく、「潔癖・冷血・威圧感」というイメージを持たれていたようだ。
ザ・元祖「半径二メートルの男」。
洋風の生活を好み、頭髪はポマードでセット、ヘビースモーカーで、毎日わずかでも、家族と触れあう時間をつくり、大切にしたそう。
公私混同はせず、政治面で対立していた西郷隆盛とも、最後まで親しく、深く心を通わせていた。
以上、ざっくり「大久保利通」でした。
お目通し頂きありがとうございました。
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